日曜日

査読書を書くとか、某書類を書くとか、大小あわせて8つの案件を25時過ぎまで対応する。突発的に入った件はまだ終わっていないし、早々に明日以降に延長した件もあるけれど、ほぼ予定どおり状態に戻った。

最近の僕は、色々な案件について時間をあらかじめ割り振る計画をたてて、それを消化している。緻密な性格に思うかもしれないけれど、10年前は全くそうではなく、自分で意図的に作ったものである。(計画をたてるのは、基本的には大嫌い。)ただ、本能にまかせて研究中心の生活をしようとすると、色々とやってくる所用にリズムが狂い、土壇場であたふたし、「仕事が多い」と環境に愚痴をいい、自分を見失い、結局、研究も碌にできない、という悪循環に陥っのだった。自分がしたいことは研究である。有名雑誌にのせるとか、たくさん論文を書くとか、研究といっても色々な動機が人によってあるだろうけど、僕の場合には、僕が好きなタイプの研究をすることに尽きる。もちろん、客観的な意義とか説明とかを考えるの当然だけれど、それとは別の根っこの部分での好き嫌いがある。その好きな部分を大事にしたい。(「好きなタイプの研究」とは、今書いている、pure glass in finite dimensions みたいなのがその典型である。それが何かは今日は説明しない。)

今の環境でそのもっともしたいタイプの研究をすることを考える。ひっきりなしにやってくる諸々とどう付き合うと、したいことができるのか。その答えが、徹底した時間の割り振りだった。そりゃ、窮屈だよ。毎日予定に追われているしなぁ。それでも、そうすることで、「したい研究をできる」時間をコンスタントに見出すことができる。諸々に対して右往左往いるときは、ムラができてしまうだけでなく、精神的な余裕がなく「研究したいのに、できない」と思う苦しさがあった。時間の割り振りをあらかじめしていることで、「したいのにできない」ということはない。研究への割り振り時間をもうちょっとまわせたらいいとは思うけれど、それは境界条件だから仕方ない。変えれないものを変えようとしても不毛(もしくはそうすることで他人に迷惑をかけている)で、境界条件のもとで最適にできれば十分だ。少なくともそう思える環境で過ごさせてもらっている。

不思議なことで、10年前に比べて、1日あたりの研究の時間は減っているが、10年前よりずっと研究できているように思える。少しづつでも集中して、かつ、コンスタントに継続しているからだろう。そのせいかなぁ、10年前よりも、いや、(研究時間が今から見れば無限にあった)20年前よりも、今の方が楽しく研究できている。