金曜日

基礎科学科3年生対象のセミナーをやっている。今回のセミナーでの目標は、「専門的文献を読んで、それを皮膚にやきつける術の獲得」にある。大概の専門的文献は、教育的ではなく、新しい知見が書かれている。したがって、初心者がそれを読むと、全くちんぷんかんぷんなのは当然である。そしたら、それを読むための基礎知識を蓄えて... と考えてしまう。勿論、そういう基礎の蓄積の修練は「常に」必要であり、その文献を読むために必要なのではない。

どういう風にそういう文献と接するかというと、まず、焦らない。わかった風に言葉尻だけおっていくのは最悪である。おちついて、出だしあたりで議論されていることについて、多くの具体的例題を自分で考えていく。こういうことを議論しているのだったら、こういう例題ならどうだろう、、とか。それに時間を使っていると、抽象化された概念と具体的な対象が一体化していくる。ここまでくると、だんだん先にいける。

研究もそうなんだよな。研究の立ち上がりの場合には、何も見えていないのが普通なので、自分なりのレベルで例題をつくって、あれこれみていくのが必要不可欠である。もちろん、まだそういうステージを経ていない分野だと、「素人」ということになる。そこでは、素人は素人として訓練をつむ機会を探っていけばよい。たとえば、僕は、10年前、非平衡統計について真っ暗の素人だった。で、長い時間かかって明確にみえる領域はでてきたし、いまだに全くみえない領域もある。みえる部分については、専門家を名乗って恥ずかしくないと自分で思う。

みえてくると、論文や発表で消耗することはきわめて多い。そんなの立ち上げの練習問題でやることやないか、、というのが、自信満々でだされると悲しくなる。そういう論文を肯定的に評価するニセ専門家がいるのをみると、さらに悲しくなる。もちろん、練習問題が悪いことではない。絶対にそのステージは踏むできである。ただ、それと研究の区別をつけれなくなってきたら、本人や環境にとって悲しいことだと思う。

自分が素人のときどうすればいいか、というと本当の専門家と喋ることである。僕は、ランダムネスのはいった統計的扱いについては、最近、少し関わっているものの、依然としてド素人の領域にいる。だから、面白いかな思った問題について、未熟なレベルで議論をすることによってましになってくる。たとえば、ぶしょーさんと喋ったいくつかのことについて、僕が全く見えていないことがまざまざとわかった。この経験は貴重である。喋った問題と関係する算数上の技術について、できそうかもしれない、、とおぼろげに感じていることはあるのだけど、まだ感覚が全くついていってないように思える。そういうとき、見えている人と生に議論することによって、自分のみえなさ加減がわかるだけでなく、その応答のひとつひとつを焼き付けることによって次につながってくる。

今、見えないことは全く恥じるべきことではない。将来に見えることが大事なのである。そして、みえてないことをみえるかの如く考えてしまうニセ専門家がはびこりはじめると環境が劣化していくので、その区別をきちんとできる環境にしないといけないのだが、、。