木曜日

田崎さんの日記に長文の"KNST論文への道" が書かれている。僕もざっと読んだ。僕は、ほぼ毎日の浮き沈みを日記に書いているけれど、うまくいったときは詳細まで書くけれど、うまくいかないときは、「うーん」とか、「くそー」とかで済ますことも多い。田崎さんの回顧録を読んでいて、田崎さんの"9月30日のメールで書かれていたこと"をなぜ僕がみつけれなかったのか、書いておきたくなった。

"9月30日のメールで書かれていたこと"とは、「拡張クラウジウスにSasa-Tasaki の現象論のアイデアをいれれば、等温等熱流環境で拡張ケルビンがでてくる」、という指摘である。算数上の問題でみれば、たった2、3行ででてくるこの指摘が、僕からでていないことに正直いって悔しさを覚えている。(さらにいえば、Komatsu-Nakagawaはもっと悔しいが、これはいつかどここでまとまって書く機会があると思う。)記録として後に残しておくと(個人的に)面白いと思うので、記憶が鮮明なうちにふりかえっておく。

まず、運動量自由度がない場合の拡張クラウジウスをだした 8月11日 の後、小松さん、中川さんとのやりとりで、運動量自由度がある場合にシャノンが使えないことを認識して、なかばやけくそに新しいエントロピーを定義したのは、8月18日*1だった。 その日の日記には、「やけくそエントロピー」のことは書かれていない。それでも、Sasa-Tasaki が再構成できそうな気がしている、、と明示的に宣言している。

つまり、この時点で、僕は今の地点の方向を向いていた。それなのに、Sasa-Tasakiにいかなったのは、怠慢だったからではない。同じ日の日記に書かれているように、僕は、もう"局所平衡からのずれ”に焦点を強くあてていて、SST もその考え方でつくりなおそうとしていたのである。(LD論文ではそこを問題にしたし、そっちはそっちで綺麗に形式化できるから。) だから、拡張クラウジウスからSST を考えようとして頭や紙に書いていた式では、局所的温度がはいっていた。(勿論、その選び方が任意であり、選び方の規則が重要であることは認識していたが。)

それに対して、田崎さんから送られてきた拡張ケルビンの温度は、熱浴の温度だった。まぁね、式をみりゃ、そりゃそうだろう、、と。熱流とめて意味のある式をだしたければそうするしかないけれど、一旦、局所温度を使ったところでイメージしつづけていると、遠くに離れた熱浴の温度をつかって、自由エネルギーを定義することは案として全く浮かんでこなかった。強く思い込むことによる負の面がでてしまったわけである。難しいですね。強く思い込まないと「隠れている大事なもの」が見えてこないし、強く思い込みすぎると「すぐそばにある大事なもの」が隠れてしまう。このあたりの感覚は未だによくわからない。

最近の日記にも書いたように、局所的温度からの記述と今のSSTとの関係はよくわからずに、今でものたうっている。なんとなくだけど、8月18日のイメージと合体するときが次の進化につながる気がしている。

*1:私的なことだが、その日、18時から27時過ぎまで、物理と全く関係ない方たちと(意識がとぶまで)飲んでいたのだった。40歳すぎた大人のすることではないですな。