土曜日

夜、夢の中。3週間前のブショーさんとの話の続きをする。樺島さんも横にいる。

ブショーさんが紹介してくれた論文はふたつある。ひとつの論文は、”(21世紀にはいってからの)新しい公式”にもとづいて、ちょっと計算しました、、みたいな話である。しかし、僕はその公式を出したことがあるし、誰でも知っていることだと思っていた。(文献を挙げよ、、といわれると困るが。)やっているちょっとした計算は練習問題みたいで、必要なら自分ですりゃいい。もうひとつの論文は、少ししんどい計算結果の報告で、90年代に出版されている。しかし、そのしんどい計算をする問題意識を深く共有することはできない。

つまり、ふたつの論文が、たまたまお茶部屋の机の上にあっても、気に留めることはなかっただろう。 しかし、このふたつの論文が会話にでてきた「文脈」がある。その文脈でふたつの論文をとらえる。また、僕にとっての「カギ」は、これらの論文には明示的には書かれていないが、きっとそういう点は専門家各人の私的ノートにあるのだろう。こういう状況を踏まえて、時々、論点を自分なりに整理していた。

夢の中では、その問題について、僕は何かしらの計算をすでにやったみたいで、ブショーさんと樺島さんに説明していた。目がさめてから思い出そうとしても、いま一つ何を説明していたのかわからない。しかし、しばらく布団の中でふわふわ考えていると、歩きはじめる一つの方向は決まってきたような気がする。とりあえずゆっくりと触り始めよう。いい感じの「わくわく感」があるので、なかなかよい雰囲気だ。

もちろん、問題の重要性は今の段階ではわからない。しかし、それは、いつもそんなもんだ。やってみて、どういう知見を獲得するかに依存する。たいていの試みは、途中でおわったり、たいした知見に到達しなかったりすることもよく知っている。でも、やらないとはじまらない。

しかし、面白いな。この話は「1分」くらいしかしていない。全く思いがけないところからカードを切られた感じだが、なんとか自分の中にとりこめた。